江戸凧保存会コラム


その1

水谷会長から江戸凧保存会創設時のようすを伺いました

文:加藤吉伸

 2001年11月、水谷会長から保存会創設時の話を、矢島さん、土岐さんと共に伺いました。



■当時の入会のしかた

 故・水谷会長が江戸凧保存会に入会したのは1974年(昭和49年)の正月でした。当時の会長は、初代会長の太田さんで、会員数は、江戸凧の糸目の数にちなんで17名とされていたそうです。  入会に許可されてから正会員になるまでに、約1年間、準会員として活動することが要求されたといいます。実はその1年間で、保存会の会員として適当であるかどうかという、人物評価をするためで、それは会員が「いいかげんな人では困る」「物事に熱中できる人でないと困る」「凧が作れなければ困る」といった理由からだそうです。すなわち江戸凧保存会の会員になれる条件として、人間性を最も重要視しており、それが会則に記載されている「入会時に3名の推薦人が必要」ということにつながったとのことです。



■江戸凧の作り方


  当時、メンバー10名の「埼玉凧の会」は、主に南埼玉や所沢で活動していたそうです。太田会長は、この会のために月1回、岩槻で江戸凧作りの講習会を開催しました。この時、現在「雑誌カイトマン」の編集者である阿部さんが講習内容をすべて記録して小冊子*1にまとめました。  講習における、江戸凧の仕様及び制作方法の全般は、共通事項として認められているものの、細部に至っては、会員各人によってかなり解釈の違いがあったようです。そのため「作り方小冊子」は、会員の承諾を得られずお蔵入りとなりました。  3年ほど前から、「江戸凧の定義(江戸凧とは?)」「江戸凧の作り方」などが話題に上っています。江戸凧の作り方としては、この小冊子に記述されている内容をたたき台にしてまとめ直すこととなっています。 *1:一昨年の総会で小冊子のコピーが全員に配布されました。



■初代、太田会長について

  初代会長、故・太田さん(明治34年〜平成元年)は、刀の鍔に飾りを施す金作師でした。子供のころから凧が好きで、両親が下谷神社の総事務を任されていたこともあり、神社の境内は太田さん専用の凧揚げ場となりました。  当時は強い風の吹くことが多かったので、凧骨は太く、今と違って凧の重さには全く無頓着。それは、刀鍛冶となった太田さんが様々な真鍮製の飾りを作って凧に取り付けていたことでも想像できたようです。  それら金物の飾りは椿油で磨き、竹は砥の粉とゴマ油をまぜてもので磨くなど、凧のメンテナンスに余念がなかったそうです。



■当時の凧揚げ

 昭和27、28年頃はひんぱんに大凧を揚げていたそうです。戦争中にやむを得ず凧揚げを中 断していた凧好き達にも、戦後の復旧とともに 徐々に復活の兆しが見えてきました。  世の中は、大型の凧が主流で春一番が吹く頃、盛んに揚げられたそうです。10尺の大凧は、糸目が100mもあり今のようにより戻しをつけないので、その長さの1/4ぐらいのところまで寄りが戻ってきたといいます。それを見越した糸目の長さでした。糸目の中心は天骨よりもさらに30cmも上で、凧は水平に近い状態で揚がっていました。  そのころ揚げられる凧は、"小さな"と呼ばれる凧でも6尺だったと聞くと、今とはだいぶスケールが違うことがわかります。様々な凧は、傾いたり、復元したりしながら揚がっていました。揚がってしまうと、傾きを直すために糸目の調整をやり直すことなどないという、本当におおらかな凧揚げだったそうです。  近所の紺屋の主人は、山形や宮城から来た若い衆に大凧揚げの手伝いをさせて、揚げ糸を300mから400mも出していました。それを見ていた太田さんは刺激され「さらにやる気が出た」と語っていたそうです。

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